一日一吉

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生まれけん

「できない」と知ることも学習のうち。鼻ほじりながらでもできたらマスター。

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書』という本を読んでいて、「学習の4段階」というのが出てきた。これがすごく良かったので胸に刻みこむために書き留めておく。

 

あることができるようになる(学習する)には、以下の4つの段階がある:

 

  • 第1段階:やり方を知らないし、できない。
  • 第2段階:やり方を知っているが、できない。
  • 第3段階:やり方を知っており、意識するとできる。
  • 第4段階:意識しなくてもできる。

 

卵の割り方を知らない子供を例にとる。

 

卵を割るのも、方法を知らなければできない。知っていても、慣れないとうまく割れない。

卵を割る手順を書いてみる:

  1. 生卵の腹のあたりを陶器の器など、硬いところに適度な強さでぶつけてヒビを入れる。
  2. そこに両手の指を差し入れ、殻を真っ二つに開き、器に白身と黄身を落とす。このとき、殻のかけらは器に入らないようにする。白身と黄身も崩さないこと。

ざっとこんな手順だと思うが、1で殻にヒビは入るが中身がぐしゃっとならない強さで硬いものにぶつけるときの力加減って、結構何回も卵を割らないとつかめない。

手順2の、かけらが器に入り込んでしまわないように、中身だけ落とすのも、案外難しい。実は、そもそも1の段階でどのくらいの大きさのヒビを入れるか、というところも大事だし、手順2での手の使い方によっても、かけらが器に混ざってしまうかどうかは変わってくる。僕はもう良い大人だが、いまだにかけらが器に入ってしまい、後で菜箸で苦労しながら取り除くことがよくある。

 

卵の割り方を知らず、一度も割ったことのない子供は当然、学習の第1段階にある。

それで、親に「こういう手順で割るんだよ」と手本を見せてもらう。

これで、一応手順は知ったことになる。でも、当然ながら、やり方を聞いただけでは割ることはできない。これが第2段階

それで、やってみる。最初は失敗するだろう。何回か失敗しながら繰り返しているうちに、意識し、指先に神経を集中しさえすればできるようになる。きれいに殻をわり、白身と黄身を崩さずに器に投入することができるようになったら、第3段階だ。

さらに経験を積み、鼻歌うたいながらでも、おしゃべりしながらでも、何も考えずにささっときれいに卵を割れるようになれば、第4段階

 

僕がここでなるほどと思ったのは、2つ。

ひとつめは、第1段階から第2段階へ移行することも「学習」の過程であること。そしてふたつめは、物事の学習の完成形は第4段階であること。

 

学習というと、僕は第2段階→第3段階の部分だとばかり考えがちであった。できなかったことができるようになることこそ、学習だと。しかしながら、そもそもやり方を知らない状態から、できなくとも手順がわかるぞ、という状態になることも十分に学習なのである。

これは、ものごとをスモールステップに分解して段階的に進めようとするときに、とても役立つ考え方だ。

 

ふたつめの方も、新鮮な考え方に映った。すべての物事について、無意識でできるレベルまで学習を進める必要はないかもしれない。一方で、とても大事なスキルや、十全にマスターしたいと思う事柄については、目つぶってても鼻ほじりながらでもできる、というくらいに無意識化するまでとことんトレーニングするのがよい、ということがわかる。

こうした無意識化したスキルを組み合わせることで、より高度なことができるようになると思うのだ。単純な例で言えば、無意識にピアノを引けるようになって、無意識に歌が上手に歌えるようになれば、ピアノで弾き語りができるようになる。

さらに、弾き語りも無意識にできるようになれば、弾き語りをしながら聴衆の様子を観察し、それに合わせて歌い方や弾き方の調子、はては選曲を変える、という高度な演奏ができるようになる。こうなると聞き手は盛り上がるだろうし、演奏者としてもすごく楽しいだろう。

 

というわけで、まずは、この「学習の4段階」を、完全に頭に叩き込もう。自分のさまざまなスキルについて、どの段階にあるのかをよくよく意識してみよう。そして、それを第4段階まで持っていって他と組み合わせるとどんな面白いことができるか? ということを考えてみよう。うむうむ、楽しくなってきたぞ!

 

 

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

脳と言葉を上手に使う NLPの教科書

  • 作者:前田 忠志
  • 出版社/メーカー: 実務教育出版
  • 発売日: 2012/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

朝歩く

歩くのはよい。

とくに、人々の多くがまだ街へと出ておらず、日も登りきっていない、朝の時間帯に歩くのは、とても良い。

僕はいつもより30分くらい早く家を出て、会社まで歩くと、それができる。

車道を走る車はごく少なく、歩道に降り積もり、夜中のうちにシャーベット状に凍りついた雪はまだ踏まれていない。

しゃり、しゃり、しゃりとそれを踏みながら歩く。

足の裏から、シャーベットが崩れる感触が伝わってくる。

しゃり、しゃりとシャーベットを踏んだ音が、車道を挟んだ向こう側のアパートの外壁に反響する。

排気ガスの匂いがまだしない。普段、当たり前に受け止めている、車の喧騒が聞こえないと、街はこんなにも静かなのだと気づかされる。すずめの一群が、街路樹から飛び立つ羽の音と、鳴き声。

 

日常の中の非日常がそこにある。時計の針をすこしずらすだけで、そこはもう不思議な非日常の世界なのだ。

非日常の世界への扉は、そこらじゅうにあるのだ。

論理に牛刀

風が吹けば桶屋が儲かる

北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐が起きる。

八戸のヒロシがくしゃみをすれば、フーサビークのシグルズールに天啓が下る。

アンドロメダ銀河の星がきらめく時、土星の輪が消滅する。

 

そこに因果はあるのか、ないのか。

見いだせば見つけられる。見いださなければ見つけられない。

あったと見えても錯覚かもしれない。

観測できずとも非存在の証明はできない。

 

因果の道筋こころもとなければ、論理の背骨に牛刀を振るえ。

常識的束縛の縄をチェーンソーでぶった斬れ。

合理的行動を粉砕し、乱駄夢に踊れ。

 

本を破り捨て、

財布の中身は道端に撒き散らし、

ジーンズを墨汁に浸して床に書道。

 

無限のシミュレーションで一生を終えるのか。

それとも絶無の思考で脊髄反射的に走り抜けるのか。

インプットなきアウトプット

書く楽しさに飲まれてしまいそうである。ひたすらに書いてしまう。これではインプットなきアウトプットとなる。
 
アウトプットが大事とはよくいうけれど、インプットなきアウトプットに意味はあるのか。そこに価値は生ずるのか。『7つの習慣』においてコヴィー博士は、世の人はあまりにも刈り取ることに夢中になりすぎて、刃を研ぐことを忘れがちであると主張していた。つまり、ただいたずらに吐き出すだけでは文章に魂が吹き込まれることはなく、従って名文は生まれず、読者に感銘を与えるあたわず、ネットの海にゴミを撒き散らすだけになる。博士の警告は、つまりそういうことである。 
 
ではそもそも、インプットとは何か。したり顔でそもそも論をぶちかますのが僕である。正確に言えば、僕の頭の中に「っていうか、そもそもさぁ〜」と、ぶちかましてくる自分がいるのである。成功本を読めば「そもそもさぁ〜、成功って何さ?」と言って来る。恋愛小説を読めば「そもそもお前も良い年なんだし、恋愛なんかさぁ〜」と言う。苦手な歴史も、改めて学ぼうと歴史本に手を出せば「そもそも今さら歴史を勉強したってさぁ〜」だ。敵は身内にいるというが、僕の場合、敵は文字通り身内にいる。むしろ脳内にいる。否、敵は自分である。 
 
こう考えて来ると、インプット、あるいは、勉強というのは、ある種の自傷行為と言えなくもない。脳内にいて自身の勉強活動を妨害にかかる自意識に対して、強引に口をふさぐなり、説き伏せるなりして、いっときでも黙らせる。暴力的手段をもってでも、黙らせねばならない。従って自傷である。その上で、精神統一、あくまで勉強を前に進めようとする自己のみを顕在化させて、ことに当たるのだ。刃を研ぐように読む。切れ味鋭く読む。しかしながら、物理的に本をちょん切ってしまうことはよそう。電子書籍のはしりのころ、裁断機をつかってほんとうに紙の書籍をちょんぎって電子化する、いわゆる自炊をする知人がいたが、彼は今も自炊をしているのだろうか。僕は書籍の存在を物理的に感じながらでないと全然読めない。 
 
そうして読んだことを、即座にアウトプットせよ、というのが今の世の学習法である。僕はそれに対して異を唱える。いや、すぐにアウトプットできるならば、一向にしていただいて構わないのだが、僕の場合はというと、そう上手くことは運ばないのだ。だから、異を唱えるというか、あなたのいう通りにはできませんと言う。
 
読んだばかりの本は、僕の頭の中でまだ整理がついておらず、うまく言語化できない。しばらく待って、忘れられるべきは忘れ、意識の奥底に沈殿すべきものは沈殿し、僕の頭の中におたまを差し入れた時にすいっとすくい取られるべきものがすくい取られるという段階になって、はじめて言語化できる。あまりに性急にアウトプットしようとするのは、頭に負荷をかけるばかりで益が少ないと考える。アイデアは数日寝かせたほうが良いものが出る、と発想法に関する本で書かれていることもある。それと同じように、広い読書をしてそれを身につけようという種類のインプットとアウトプットにおいては、適度に寝かせるのが良いと思うのである。いくら惚れた相手だからと言って、四六時中ずっとべったりしていると落ち着かなくなるのと同じである。適度に距離を置いたほうが、会っている時間の輝かしさが味わえるというものだ。 
 
強引に結論めいたことを申し上げるならば、バランスが大事よね、中庸、中庸、ということだ。
 
大学・中庸 (岩波文庫)

大学・中庸 (岩波文庫)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/04/16
  • メディア: 文庫
 

この本はまだ購入していない。バランスが大事だと感じることが多いので、「中庸」についてはいつか是非読みたいものである。

駄文と教養、あるいは、すぐに役立つ勉強をひたすら推奨することへのささやかな反論

駄文遊びをしよう。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生まれけん」とブログのトップに書いたことを、僕はすっかり忘れてしまっていたようだ。ここに文章を書くということを、もう1年くらいしていなかった。ただし、少し前に「公園に行きたい気持ち」を小さな詩に書いたけれど、それを数に入れなければ、の話だ。

ところで、この詩を書いたおかげか、1時間くらい気の向くまま雪の降り積もった公園を散歩することができた。やはり言葉にして書くことは大事だ。書いたことは実現する、という自己啓発書によくあるアドバイスには、一片の真理が含まれていると思われる。

さて、すでにお気づきのことと思うが、駄文遊びというのは、どいうということもない。ただ僕が、気の向くまま、筆、もとい、キーボードの向くままに好きなことをあれこれと書くことである。この文章を読むことによって、あなたに何かしらの効用があることを僕は保証できない。ただ、世の中、あまりにも利益志向というか、無駄がなさすぎると言うか、動画であればつかみの10秒で面白さを伝えるとか、音楽でも15秒聴くだけでノれるとか、僕が生業としているプログラミングで言えば短時間で学習できて数行のコードでアプリが出来上がるとかいうふうに、あまりにも効果がすぐに得られることを求めすぎる風潮がある。僕はそれに対して、このダラダラと続く文章をもってささやかな抵抗を試みるわけである。

 

あなたの「大好き!」を見つけよう

 

あなたは何が好きだろうか?

なぜ僕が突然にこんなことを問うのか、訝しく思われることだろう。そのこころは、楠木建さんの『「好き嫌い」と才能』という本を読んだことにある。

 

「好き嫌い」と才能

「好き嫌い」と才能

 

 

楠木建さんは「好きこそ物の上手なれ」を信条として生きている人である。好きなことはたくさんやっても苦にならない。他人から見れば苦労している、努力していると見えるようなことでも、本人にとっては好きだから、楽しいからやっているだけ。その楽しいことをどんどんやると、いつの間にか他人にとっての「圧倒的努力」を積むことになる。それがその人にとっての仕事の核となる、というような論理である。

逆に言えば、嫌いなこと、苦手なことをやってもどうせ身につかないし、大した成果も上がらない。だからそれは他人に任せましょう。嫌いなことからは全力で逃げましょう、ということである。

楠木センセイはその論理に基づき、自分の「好き嫌い」に忠実に仕事をしておられると思われる方にインタビューをした。それをまとめたのが本書である。

この本を読んで、言葉に影響されやすい性質の僕は、すぐに「ああそうか、やはり好きなことを突き詰めよう! あるいは、嫌いなことはよしておこう!」と決意を新たにするわけである。

だからこそ、あなたにも問うたわけである。何が好きだろうか、と。

 

あなたの「大嫌い!」を見つけよう

 

言い換えれば、あなたは何が嫌いだろうか?

僕が好きなのは、独りで気ままに本を読み、気ままに散歩をすることである。コーヒーを飲みながらケーキを食べるのは至福のひとときである(至福のひとときをふたとき、みときと繰り返しているうちにすっかり腹が出てしまった)。そして、こうしたぐだぐだとしたどうしようもない文章を書くことである。およそ役に立たないことをするのが好きである。

一方で、僕が生業としているIT、プログラミング、エンジニアリングの世界というは、僕の好きなことと対照的である。技術を役立てて問題を解決することが主題なのである。役に立たないコードに価値はない。おおっと、僕の志向と正反対ではないか。これは困った。好きなことと仕事がミスマッチを起こしている。これは危機的状況である。

そこで僕は、自分の仕事に対するスタンスについては「意識低い系で行く」ということにした。流行りの技術は追わない。仕事に絡む勉強をするときには、あまり変化しない基礎的なところを重点的に学習する。そもそも業務外ではプログラミングをしたいと思わないので、余暇には技術と関係ない本を読む。

これはいわゆる典型的な意識高い系のエンジニアからすれば、いかにも怠惰でやる気がなく、唾棄すべき姿勢である。そんなことでは、変化の激しいこの業界では生きていけないよ、といった忠告が今にも聞こえてきそうだ。

 

技術より教養

 

ところで、僕は「教養」という言葉になにか憧れめいたものを感じるので、教養について書かれた本をしばしば読む。少し前に「教養」ブームが起きたこともあり(このブームは根強いようで、今も『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』というような本が本屋に平積みされている)、学者、作家、ジャーナリスト等、あらゆる職業の人が本の中で「教養」について語っている。

それらの本を読んでいて、そこそこの頻度で出てくる言説が「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる。すぐに役に立たないことは、ずっと後ですごく役に立つ」である。

それで、すぐに役立たない無駄な知識を得たり、一見役に立たない、自分と関係なさそうな本を読んだり、仕事とは関係ないボランティア活動を余暇にやってみよう、旅に出よう、などというようなアドバイスがなされるわけである。

僕はこういうのが大好きなのである。つまり、すぐに役立たない、この文章を書くというような無駄な活動を正当化する言説を僕は恣意的に採用するわけである。この文章を書くこと自体がすでに楽しい活動である。だから役に立たなくてもよろしい。仮にこの文章を書く活動が、遠い将来に役に立ったとしたら、さらに嬉しい。一石二鳥である。おまけに、さりげなく貼っている書籍のアフィリエイトから収入が得られれば、とてつもなく嬉しい。一石三鳥である。

というわけで、僕は、「業務外で勉強しないエンジニアは生き残れないよ」と意識高い先輩に言われて胃が痛くなっている若いエンジニア諸君に声を大にして言いたい。無理して技術の勉強するくらいなら、夢中になって読める小説やエッセイを読みたまえ、と。

これはもちろん、エンジニアに限らず、どのような仕事をしている人にも当てはまる。無理に勉強するくらいなら、楽しいと思える分野の本を読むなり、楽しいと思える余暇活動を何かしら見つけてやってみるほうが、よほど精神衛生的にも良いし、あなたの肥やしとなると思う。

 

さいごにーーーアフィカス化する記事

 

というわけで、僕は満足するまで文章を打った。あとは私利私欲のためにひたすらアフィリエイトのリンクを貼りまくる。この文章が少しでもあなたの役に立てば幸いである。あなたが以下の書籍のいずれかに興味を持ち、これらのリンクを通して本を購入してくれたとすれば、それは僕にとって望外の幸福である。

 

 

教養脳を磨く!

教養脳を磨く!

 

 脳科学者と書誌学者が教養について対談した本。良く言えば、碩学二人の知の共演。悪く言えば、オッサン二人のダベり。ちなみに僕は一度で飽き足らず二度読んだ。

 

 

 

おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか? (NHK出版新書)

おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか? (NHK出版新書)

  • 作者:池上 彰
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2014/04/09
  • メディア: 新書
 

わかりやすく説明してくれる池上先生の教養本。これも二周した。

 

 

 

語彙力こそが教養である (角川新書)

語彙力こそが教養である (角川新書)

  • 作者:齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2015/12/10
  • メディア: 新書
 

 教養=語彙力。まあそういう考え方もあるよね。これは一周。

 

 

危機を克服する教養 知の実戦講義「歴史とは何か」

危機を克服する教養 知の実戦講義「歴史とは何か」

 

 これは零周した。すなわちまだ読んでいない。いずれ読もう。

 

 

零の発見―数学の生い立ち (岩波新書)

零の発見―数学の生い立ち (岩波新書)

 

 零つながりで。僕たちが普段使っているアラビア数字(0,1,2,...)がいかに素晴らしいものであるかがわかる。こうした何気ないもののすごさを知り、感動できる視点を持つことこそ教養ではなかろうか。うまくまとめた。

公園いきたい

公園だ公園だ公園いきたい。ここからとびだし公園いきたい
公園あるけば血がかき混ぜられる
空眺めれば気がかき混ぜられる
草木に触れれば応えてくれる
風に聞けば教えてくれる
公園だ公園だ公園いきたい。ここにいちゃだめだ、公園にいこう

std::begin, std::endで固定長配列のイテレータを取得する

C++学習メモ。

C++11で導入されたstd::beginstd::endを利用すると、固定長配列に対するイテレータを取得できる。

static void std_begin_t()
{
    {
        int ar[] = { 1, 9, 4 };

        for (auto it = std::begin(ar), end = std::end(ar); it != end; it++)
        {
            std::cout << *it << " ";
        }
        std::cout << std::endl;
        // 1 9 4
    }

    {
        int ar[5];
        ar[0] = 3;
        ar[1] = 5;
        ar[2] = 7;

        for (auto it = std::begin(ar), end = std::end(ar); it != end; it++)
        {
            std::cout << *it << " ";
        }
        std::cout << std::endl;
        // 3 5 7 -858993460 -858993460
    }
}

2つ目の例では、要素数5の配列を宣言し、3つ目の要素までしか値を初期化していないので、残り2つの値の出力が未初期化値となっている。

こうして取得した配列に対するイテレータは、std::vectorなどのイテレータと同じように、std::for_eachstd::sortの引数として渡すことができる。

static void ary_sort_t()
{
    int ar[5];
    ar[0] = 2;
    ar[1] = 1;
    ar[2] = 4;
    ar[3] = 5;
    ar[4] = 3;
    auto first = std::begin(ar), last = std::end(ar);

    std::sort(first, last);

    std::for_each(std::begin(ar), std::end(ar), [](int e){
        std::cout << e << " ";
    });
    std::cout << std::endl;
    // 1 2 3 4 5
}